立花隆の「臨死体験」には、世界中から集めた多くの臨死体験の証言が収められています。※1
臨死体験とは、病気や事故で死にかかって、意識を失っている間に本人が見たり聞いたりした体験です。意識が戻ってから話した内容、つまり証言の記録です。
臨死体験については、あの世を垣間見た貴重な体験であると考える人と、あくまで脳の活動による夢に過ぎないと考える人がいます。
ある調査によると、日本人で「あの世」はあると思う人は3割から4割くらい、分からないという人もほぼ同じくらいの割合のようです。欧米人に比べると相当に低くなっています。
私は、半信半疑だったのですが、「臨死体験」を読み、いろいろ考えてみると「あの世」はある、そして魂というものがあると思うようになりました。
臨死体験の主役は「魂」
臨死体験では、
三途の川やきれいなお花畑に出会った
神様、仏様、死んだ親や親戚に会った
自分(意識)が身体から抜けだして浮遊し(体外離脱)、いろいろなものを眺めた
などの話がよく語られています。
臨死体験中の体外離脱証言では、肉体から抜け出して動き回る「意識」や「自分自身」がよく出てきます。見たり聞いたりはできますが喋ることはできない、時空を超えた存在です。再び肉体に帰ってきて、再結合し、周囲の人から「意識が戻った」と認識される状態になります。
この「意識」は、病室の天井付近からベッドに横たわる自分の肉体や治療にあたる医師、看護師の治療の様子や会話などを見聞きして、記憶しています。その記憶が驚くほど正確であった、そしてそのような位置でしか分からない(ベッドに寝ていたら絶対に分からない)内容であったなどの報告があります。
「意識」は、病室を抜け出し、別の部屋にいた家族を見たり話し声を聞いたり、1000キロも離れた実家に飛んで行って家族のだんらんの様子を見聞きしたりしています。これらの見聞きした内容も、後日、事実であったことが確認されています。つまり、体外離脱で、客観的な情報を持ち帰ってきたということを意味しており、体外離脱を現実のものと考えざるを得ない事例が沢山あります。
この時空を超えた「意識」こそ魂ではないでしょうか。つまり、臨死体験の主役は魂であって、魂の存在を証明していると言えます。
これに対して、脳科学は、臨死体験は、人間が瀕死に陥った時に混乱した脳が作り出す夢に過ぎないと説明します。
「これまでに味わったことのない幸福感に包まれた」という多くの臨死体験の証言がありますが、これは、脳内に大量のエンドルフィンが分泌されたからであると説明します。一般に、死ぬ間際には、エンドルフィンが放出され、死の苦痛を和らげることが分かっているのです。
臨死体験の多くが、その人の生活・文化環境や宗教の影響を強く受けており、記憶が重要な役割を果たしていることも脳内現象であるとする根拠になっています。
多くの科学者は、明白な証拠に基づいて合理的、客観的に証明できない非物理的なものは認めないとする信念を持っています。専門的な知識の教えに従えば、当然のことでしょう。
しかし、私たちは「完全な知識」を持ち合わせているわけではありませんから、あらゆることを合理的、客観的に説明することはできません。
私たちは、4次元の空間に住んでいますが、この「次元」は、人間が自分たちの日常感覚をうまく説明できるように勝手に作り出したものです。これに基づき得られた膨大な知識を絶対的なものとし、ほかの存在を一切認めないという姿勢は傲慢とも言えます。この世界には、科学では説明できない現象がいくらでもあるということを忘れているのではないでしょうか。
臨死体験ではありませんが、亡くなる寸前の人が時空を超えて、親しい人のところへお別れの挨拶に来たという話は少なくありません。
ソニーの天外伺朗は、創業者の井深大が日本で亡くなる直前にサンフランシスコでビジョンとして現れた時の経験を語っています。※3
吉村昭は、病床の母が、中国大陸で戦死した次兄が夢の中に現れたという思い出を語っています。それも、びしょ濡れの浴衣を着ていて不思議に思っていたところ、渡河の直後の戦闘で亡くなったことがあとでわかったとのこと。※4
私も、母が、亡くなった早朝に夢の中に出てきた経験があります。
これらの経験は、時空を超越した魂の働きとしか考えられません。
あの世はあるのか
死によって肉体が滅びたあとに、残る魂の行き先が「あの世」です。魂が時空を超えた存在であるならば、あの世もまた時空を超えた存在でしょう。
魂が意識であるとすると、あの世は「大きな意識」ということもできます。
魂と同様、科学で合理的に説明できない「あの世」は存在しないと考える人がいます。
「あの世」の存在を認めない人は、「人は死ねばゴミになるだけである」と考えます。立花隆は、どちらかと言えば、自分もそのように考えていると述べています。※2
臨死体験で語られるあの世は、三途の川、お花畑、あふれるほどの柔らかな暖かい明るい光など様々です。これは「魂」が「意識」であるため、意識の状況に応じてあの世は様々な姿を見せるのでしょう。記憶が意識に働きかけ、記憶の断片が姿を見せると考えられます。
臨死体験の中に、生まれる前の子どもに会ったという報告があります。
プールで溺れて昏睡状態になった女の子が、臨死体験で、きれいな花がいっぱい咲いているところで、生まれるのを待っている子供たちに会い、その子たちと友達になり楽しく遊んだというのです。※1
臨死体験ではありませんが、多くの幼児が、生まれる前の記憶を語っています。ほとんど例外なく、自分が空の上で両親を選んで生まれてきたと話します。このとき、自分のことを「光」と表現していますが、幼児には「意識」という概念はありませんから、類似したイメージをそのように呼んでいるのでしょう。※5
私も、親しい友人から、一人息子が、「ボクがパパとママを選んで生まれてきた」と言われて嬉しかったという話を聞いたことがあります。
著名なアメリカの精神科医キュブラー・ロスは、「人は死んでも、別の存在の仕方で存在し続ける。人は死ぬとき、さなぎから蝶がかえるように肉体から魂が抜け出して別の次元の世界へ羽ばたいていく」と語っています。※1
アメリカ人研究者ラバージ博士は、明晰夢(「自分が夢を見ている」と分かって見ている夢)の最後に見る「自分の死」のイメージとして、「自分はすうっと落ちていく雪のようなもので、最後に海にポチャンと溶けて自分がなくなってしまう。そして最後に自分は海だったと思い出す」と述べています。※2
五木寛之は、「空から降った雨水は樹々の葉に注ぎ、一滴の露は森の湿った地面に落ちて吸い込まれる。そして地下の水脈は地上に出て小さな流れをつくる。やがて渓流は川となり、平野を抜けて大河に合流する。その流れに身をあずけて海へと注ぐ大河の水の一滴が私たちの命だ。やがて太陽の光に熱せられた海水は蒸発して空の雲となり、ふたたび雨水となって地上に注ぐ。」と書いています。※6
生命は、38億年前に深海で誕生しました。
誕生前の赤ちゃんは母胎の羊水の中に浮かんでいますが、羊水と海水の化学成分はほとんど同じです。
海は、私たちが生まれる場所であり、還るところなのかも知れません。
おわりに
かつては、宗教が「あの世」とか「魂」についての説明責任を果たしていたように思われますが、最近は、世の中の科学技術一辺倒の勢いに負けてか、あまり熱心でないようです。
多くの人にとって、科学技術が解明できない現象に目を向けることは、心理的に不安を生じるからかもしれません
我が家では、代々、仏教(浄土宗)を祀ってきました。かつて、キリスト教の教えを受けたこともあります。その影響は、今でも残っていますが、別のところで、私は「あの世」や「魂」を確信するようになりました。
宗教的には、自然界の目に見えない時空を超えた霊的存在を信ずるという意味で、「アニミズム」の信者ということになるのかと思っています。
これによって、私は、家族やご先祖に常に見守られているのだという安心感を得ることができました。
文献
※1 立花隆「臨死体験上・下」文春文庫、2000年3月10日(初出1994年9月)
※2 立花隆「死はこわくない」文春文庫、2018年7月10日(初出2015年12月)
※3 天外伺朗「運命の法則」(文庫版、飛鳥新社)2015年3月19日(初出2004年)
※4 吉村昭「私の引き出し」文春文庫、1996年5月10日
※5 飯田史彦「[完全版]生きがいの創造―スピリチュアルな科学研究から読み解く人生の仕組み―」PHP文庫、2012年5月21日
※6 五木寛之「大河の一滴」幻冬舎文庫、1999年3月25日(初出1998年4月)