一昨年(2019年)11月、京都在住の難病に苦しむ女性Aさんが、二人の医師に投与された薬によって亡くなりました。嘱託殺人事件として報道されています。
殺人?
Aさんは耐え難い苦しみに耐えかねて死を選びましたが、体の自由が失われて自ら実行することができなかったため医師に手助けを求めたのでした。これが「殺人」?
お迎えもそう遠くない身にとって、あれこれ考えさせられる事件でした。いまだに続いているモヤモヤとした想いを綴りました。
嘱託殺人と安楽死
安楽死には「消極的安楽死」と「積極的安楽死」があります。
消極的安楽死とは、苦痛を長引かせないために、治療を中止することによって死を導くことです。本人に明確な意思があれば、これは自殺の一種であり、現実に実行が可能です。
積極的安楽死とは、苦痛を取り除くために致死薬の投与などによって直接死に至ることです。本人が実行すれば自殺となりますが、医師など他人が加担した場合には刑法の嘱託殺人罪に問われます。
ただし、判例によって、安楽死と認められた条件を満たしている場合には違法行為としないことになっています。今回は、この条件を満たしていないと判断されたため嘱託殺人となりました。
法に触れるかどうかは専門家の判断に従うしかありませんが、変だなと思うことがあります。
違法行為としない条件のひとつとして、「患者が耐え難い肉体的苦痛に苦しんでいること」があります。
「耐え難いかどうか」を本人以外の誰が分るでしょう?多くの場合、家族、肉親でも分からないのに、裁判官には分かるのでしょうか?
もう一つ、「精神的苦痛」が無視されているのも不思議です。肉体的苦痛には耐えがたい場合があるが、精神的苦痛は必ず耐えられる、あるいは耐えるべきということなのでしょうか?
武士の情け
私には、実行した二人の医師が犯罪者即ち悪人とはどうしても思えません。理由を挙げてみます。
第一に、医師たちには、Aさんのためを思い、Aさんのために助けよう、協力しようという気持ちがあったことです。二人は医師ですから、自分たちのやろうとしている行為について深い知識があり、行為に伴う法的なリスクについても熟知していたはずです。
そのようなリスクを冒しても「Aさんのために」という熱い思いがあったのです。
第二に、医師たちの行為は金銭目的ではなかったことです。Aさんに請求した報酬は130万円でした。少ない金額とは言いませんが、旅費や薬品購入代、その他の経費を差し引くと、ぼろ儲けしたたわけではありません。金銭目的であれば、足許を見てもっと高額の請求をすることも可能だったはずです。
第三に、一時の衝動や感情に流された行為ではなかったことです。医師たちは信念をもって、冷静に用意周到に協働で行動を完結させました。
医師の一人が、SNSで「高齢者や回復の見込みのない病人は生きている意味がない」などと投稿していたことから、理性を欠いて感情の赴くまま自分の欲望のためにAさんを殺したなどとする勝手な非難が飛び交っています。SNSに投稿された記事は、読者数を稼ぐため過激なこと、突飛なこと、その他のデタラメが満載であることは度々指摘されています。
医師のSNSの記事と実際の行為には直接的な関係は何もありません。このような投稿記事を根拠にして医師の行為に関して意見を述べる人も、また、読者稼ぎのデタラメ記事投稿者と言わざるを得ません。
石原慎太郎氏は、武士の覚悟の自殺ともいえる切腹の苦しみを救う「介錯」を、殺人どころか美徳と指摘しておられます。
「武士の情け」という言葉は、もともと、この介錯を意味していたようです。
法律上の判断は別にして、石原氏同様、私には、二人の医師の行為は「武士の情け」と見なされるべきと思います。
自殺は悪か?
自殺は、周りに迷惑がかかるから、家族を悲しませ苦しめるから、外聞が悪いからすべきでない、つまり悪だとされています。
人間には自殺する権利はない、生きる義務だけがあるということでしょうか?
生きることがどんなに苦しくとも我慢して生きよということでしょうか?
周りができることは苦しみを少しでも癒すことだけです。癒しによって自殺を思いとどまれば結構なことです。しかし、残念ながら癒すことのできないほどの苦しみも間違いなく存在します。
自殺する以外に苦しみから逃れる方法がないとすれば、自殺は容認されるのではないでしょうか。つまり、人間には自殺する権利があるということです。
若くして自ら命を絶った芥川龍之介は、「あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。」と書いています。※1
自殺に肯定的、というより自殺は人間の当然の権利とも読めます。
「楢山行」は、村の掟によって義務とされていた老齢者の自殺のことです。※2
言い方を変えれば自殺しない権利がなかったということです。現代の目線から見れば馬鹿げた悲惨な話ですが、当事者たちにはどうすることもできない社会の掟だったのでしょう。
私たちには、自殺する権利も自殺しない権利もある、義務はないというべきではないでしょうか?
Aさんは自殺を決意してから、実行することができなかったため、多少の揺らぎはあったようですが7年間もの間苦しみに耐えてきました。
そのことは主治医も知っていましたし、おそらく家族も承知していたでしょう。しかし、なすすべもありませんでした。
二人の医師は、Aさんが希求していた、しかし物理的に不可能だった自殺を助けて応援したのでした。医師の行為を非難する人は、非難の言葉の後に、こう付け加えるべきです。
「Aさんはもっと生きて、もっともっと長く苦しむべきだったのだ。」
残酷と思いませんか?
自殺は天の意志でもある
たまにクジラの大群が浅瀬に打ち上げられることがあります。
人間が助けようと沖に戻しても戻ってきてしまうそうです。
自然がクジラに命じた集団自殺です。俺たちの自殺の邪魔をするなと言っているようです。
自殺は、本人の問題です。残された人間にとっての問題は別次元のものです。
本人の問題は、周りがとやかく言うことではありません。周りにできるのは本人の気持ちに寄り添うことだけです。
学生時代、友人が自殺しました。心中でした。あまり深い付き合いはなかったのですが、しばらくの間、彼がどんな事情で死んでいったのか、なぜ寄り添ってやれなかったのか、考えても考えても分からず落ち込みました。
Aさんの介護には、人員のやりくりの関係から男性看護士が付いたこともあったようです。Aさんの苦痛は尋常ではなかったでしょう。
私自身、死にたいと思ったことは何度もあります。
私は、「みつくち」です。鏡で自分の顔を見るのがいやでいやでたまらず、小学校のころ登校したくなくて何度も死にたいと思いました。
母親を、「なんで僕なんか産んだんだ」と泣きながら詰ったこともあります。つらい思い出です。
自殺することは権利です。自殺しないこともまた権利です。すべて本人の問題と、つくづく思います。
私たちの死への道のりは、私たちのコントロールの及ばない天の手に委ねられています。
自殺もまた天の采配と言えなくもないでしょう。
死神の予定帳にすでに記入されているということです。
ハーメルンの笛吹き男というドイツの伝承があります。
笛の音によって催眠状態になった子供たちが集団で自殺する話です。
クジラの大群も似たような現象ではないでしょうか。
自殺そのものが、実は、ある種の催眠効果、天の采配によるのかも知れません。
「遺伝」は、ある程度、自殺に寄与するようですが、これもまた天のメッセージかも知れません。
おわりに
あの世では、生前に失われた手足は元通りに戻り、どんなに重かった疾病も癒えると聞いたことがあります。
Aさんは、きっとお元気で過ごしておられることと思います。
ご冥福をお祈りします。
文献
※1 芥川龍之介「侏儒の言葉」文春文庫、2014年7月10日(初出1927年12月)
※2 深沢七郎「楢山節考」新潮文庫、1964年7月30日(初出1957年1月)