誰にも一度は、「自分は何のために生きているのだろう?」、「人間の生きる目的とは何だろう?」と思うことがあったはずです。
私も、お迎えがそう遠くない歳になり、子供は無事成長したし、孫の元気な姿も見ることができ、しばしば、「これ以上何のために生きている必要があるのか」、という思いにとらわれます。
そのたびに、どこかで、少しだけかじった禅の心得にならって、「今日一日、今、目の前にあることにしっかり取り組むしかない」、と自分に言い聞かせています。
最近読んだ「1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書」(致知出版社)※1に、先輩たちが同じ趣旨を書かれているのを見つけました。嬉しくなって覚え書をつくってみました。
真心尽くせ 人知らずとも
【松原泰道(南無の会会長・龍源寺前住職)】
大学を卒業した昭和6年は昭和恐慌の真っ最中で、誰一人就職が決まらず、痛ましい思いをしていた仲間たちと、心機一転、箱根関所跡を目指して徒歩旅行に出かけたのでした。
目的地に着いて、桜の花が散る中で、偶然に、万葉仮名で書かれた歌碑に出会いました。
「あれを見よ 深山の桜咲きにけり 真心尽くせ 人知らずとも」
「ああ、いい歌を教わったな。これからどんな苦境にあっても、自分たちは人を騙したり、苦しめたり、要領のいい生き方はやめような。山の奥深くに咲いた桜のように、誰が見てくれようとくれなかろうと、ただただ真心を尽くしていこうじゃないか。私たちはその時本当に感動し、そう誓い合いました。五人の友達でしたが、いまは一人もおりません。その五人とも、誰一人後ろ指をさされる者はなく、人生を終わりました。この時の誓いがこの年まで私を支えてくれました。」
苦境をいたずらに嘆いて時を過ごすのでなく、今を大事にと、心機一転、旅行に出かけ、図らずも、今を大事と咲き誇る桜を愛でる一句に出会ったのでした。そして、それは生涯の支えとなったのです。
(「一日一話」9月21日)
浜までは海女も蓑着る
【外山滋比古(お茶の水女子大学名誉教授)】
「浜までは海女(あま)も蓑(みの)着る時雨(しぐれ)かな」
「詠んだのは江戸時代の俳人、滝瓢水(たきひょうすい)である。
これから海に潜る海女が、雨を避けるために蓑を着て浜に向かう。どうせ海に入れば濡れてしまうのに、なぜ蓑を着る必要があるのか。浜までは濡れずに行きたい、というのが海女の気持ちなのである。つまり人間は、少しでも自分を愛おしみ、最後まで努力を重ねていかなければならないのである。」
「この句の「浜」を「死」と捉えれば、一層味わいが深まる。どうせ仕事を辞めたんだから、どうせ老い先短いんだから、と投げやりになるのが年寄りの一番よくないところである。死ぬ時までは、とにかく蓑を着る。日が照りつければ日傘を差す。そうして最後の最後まで前向きに、少しでも美しく立派に生きる努力を重ねていくべきなのである。」
(「一日一話」9月10日)
日新 日日新
【吉良節子(土光敏夫元秘書)】
土光敏夫が、色紙を求められるといつも書いていたのは、座右の銘としていた
「日新 日日新(日に新たに、日々に新たなり)」
でした。
出典は中国の古典「大学」で、「今日という一日は天地開闢以来初めて訪れた一日である。それも貧乏人にも王様にも、みな平等にやってくる。その一日を有意義に暮らすためには、その行いは昨日よりも今日、今日よりも明日は新しくなるべきだ」という意味です。
また、「一日の決算は一日にやる。失敗もあるであろう。しかし、昨日を悔やむこともしないし、明日を思い煩うこともしない。新たに今日という清浄無垢な日を迎える。ぼくはこれを銘として、毎朝「今日を精いっぱい生きよう」と誓い、全力を傾けて生きる」とも話されています。
(「一日一話」1月2日)
限界を超える
【宮本祖豊(十二年籠山行満行者・比叡山延暦寺円龍院住職)】
三千の仏様の名前を唱えながら五体投地(両手・両膝・額を地面に伏して礼拝すること)を行う修行を行われていた時の回想です。
「やはり体力の限界が来る。精神的にも限界が来る。もう二度と立ち上がりたくない。それくらい疲れ果てます。その時、どうするか。もう一回だけやろうという気持ちを起こすんです。で、もう一回やりますと、あともう一回くらいできるんじゃないか、と思うんです。これを三回繰り返すと、いままで限界だと、もう二度と立ち上がれないと思っていたのが、なぜか不思議と「なんだ、できるではないか」と、気力が漲ってくる。」
十二年籠山行は、ご真影に祈りをささげる毎日を送る修行で、十二年という期間が定められてはいますが、後継者があらわれなければ、何年でも続けなければならないことになります。
「ということは、ある意味で終わりがないんですね。そういう中においては、きょう一日、いま一瞬をどうやって生き切るか、これがすべてだと思います。」
「与えられているものに感謝しつつ、それぞれの仕事、それぞれの立場において、いま一瞬を生き切る。全力を尽くすこと。これが間違いなく悟りに近づいていく道であり、伝教大師の求めた一隅を照らすことに繋がるのです。」
(「一日一話」7月8日)
今日を最期と生きる
【石川真理子(作家)】
「目の前の一歩を出来る限り最良な一歩にするには、次のような心がけを抱くことが秘訣のようです。
毎日、今日を最期と生きること。
「今日も命がありましたね。ありがたいことです。」
これは、武士の娘だった祖母がことあるごとに申していたことでした。」
「世相が暗い時というのは不安が薄絹のようにまとわりつき、些細なことで気落ちしたり、いたずらに先行きを案じてしまいます。
けれど、いくら案じたところでせいぜい自分にできることは、その状況をいかに明るく力強くのりきるかということではないでしょうか。」
「祖母は、また、
「母として妻としてまともにお務めを果たしておれば、くよくよ心配するほど暇な時間などありはせぬ。とどのつまり、今日を最期と一所懸命になっていないということですよ。
明日のことなど案ずることはありませぬ。それより今日を最期と生きなさい。そうである限りは、どんな世であろうとも、良き人生と相成りますよ。」
などと言うのでした。」
「今を生きる私たちも、いつ、どこで、どのように最期を迎えるのか誰も知るよしはありません。だからこそ今日を最期と明るく生きることを心がけていきたいと思うのです。」
(「一日一話」9月5日)
きょう一日に集中
【鳥羽博道(ドトールコーヒー名誉会長)】
「お金も後ろ盾もない。コーヒーの品質も高くない。あるのは夢と情熱だけ。まさに徒手空拳でスタートしたため、最初は全く買ってもらえなかった。明日潰れてもおかしくないという恐怖心を鎮めようと、夜は自宅近くの神宮外苑を散歩してからいつも帰宅していた。
そんなある時、ハッと気がついたことがある。潰れる、潰れると思うから心が委縮し、思い切った仕事ができない。明日潰れてもいいじゃないか。きょう一日、朝から晩まで体の続く限り働く。明日のことは考えない。きょう一日に集中しよう――――
毎日毎日こういう心構えで仕事を続けていると、私の真剣な姿を見て、「ああこいつ大変だな。何とかしてやろう」と手を差し伸べてくれる人が現れるようになった。」
(「一日一話」7月25日)
命とは君たちが持っている時間
【日野原重明(聖路加国際病院理事長)】
「二年前から二週間に一回は小学校に出向いて、十歳の子供を相手に四十五分間の授業をやっています。
そこで僕が言うのは、「命はなぜ目に見えないのか。それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ。死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう。どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うかしっかり考えながら生きていってほしい。さらに言えば、その命を今度は自分以外の何かのために使うことを学んでほしい」ということです。」
「僕の授業を聞いた小学生からある時、手紙が届きましてね。そこには、
「寿命という大きな空間の中に、自分の瞬間瞬間をどう入れるかが私たちの仕事ですね」
と書かれていた。十歳の子どもというのは、もう大人なんですよ。あらゆることをピーンと感じる感性を持っているんです。」
(「一日一話」2月1日)
いまがその時、その時がいま
【外尾悦郎(サグラダ・ファミリア主任彫刻家)】
「この三十四年間、思い返せばいろいろなことがありましたが、本当にやりたいと思っていることがいつか来るだろう、その瞬間に大事な時が来るだろうと思っていても、いま真剣に目の前のことをやらない人には絶対に訪れない。憧れているその瞬間こそ、実は今であり、だからこそ常に真剣に、命がけで生きなければいけないと思うんです。」
(「一日一話」12月14日)
今日一日の事
【川島英子(塩瀬総本家三十四代当主・会長)】
六百年以上にわたる塩瀬の商売を支える家訓として守っているのが「今日一日の事」です。渡辺崋山の遺訓を教訓として、家訓としたものです。
【今日一日の事】
一、今日一日三ツ君父師のご恩を忘れず不足を云ふまじき事
一、今日一日決して腹を立つまじき事
一、今日一日人の悪しきを云はず我善きを云ふまじき事
一、今日一日虚言を云はず無理なることをすまじき事
一、今日一日の存命をよろこんで家業大切につとむべき事
右は唯今日一日慎みに候。
翌日ありと油断をなさず、忠孝を今日いち日と励みつとめよ。」
(「一日一話」9月13日)
人生とは織物である
【志村ふくみ(染織作家・人間国宝)】
「人の人生も織物のようなものだと思うんです。経糸はもうすでに敷かれていて変えることはできません。人間でいえば先天性のもので、生まれたところも生きる定めも、全部自分ではどうすることもできない。ただ、その経糸の中に陰陽があるんです。
何事でもそうですが、織にも、浮かぶものと沈むものがあるわけです。要するに綾ですが、これがなかったら織物はできない。上がってくるのと下がってくるのが一本おきになっているのが織物の組織です。そこへ横糸がシュッと入ると、縦糸の一本一本を潜り抜けて、トン、と織れる。
私たちの人生もこの通りだと思うんです。いろんな人と接する、事件が起きる、何かを感じる。でも最後は必ず、トン、とやって一日が終わり、朝が来る。そしてまた夜が来て、トン、とやって次の日が来る。これをいいかげんにトン、トン、と織っていたら、当然いいかげんな織物ができる。だから一つひとつ真心を込めて織らなくちゃいけない。きょうの一織り一織りは次の色にかかっているんです。」
(「一日一話」3月15日)
心・力・意を尽くす
【辰巳芳子(料理研究家)】
「聖書の中に「汝心を尽くし、力を尽くし、意を尽くして、あなたの神を愛し、人を愛しなさい」という言葉があります。
やっぱりそこに出てくる「心」と「意」と「力」の三つを全部使わなきゃダメですね。どこか端折ると必ず一からやり直しということになって、結局後で三倍も骨が折れることになりますから。ですからどんな小さな仕事でもこの三つを精いっぱい使うという姿勢は、一貫して貫いていかなければなりませんね。」
「人生はその日その日、一日一日、一時間一時間、一分一分、それ以外にないんですものね。そして死んでいく時には誰もが、「いろんなことごめんね」、それから「いろんなことありがとうね」ってこの二つ以上の言葉は出てこない。「ごめんなさい」と「ありがとう」に集約されちゃうでしょう。人生ってそういうものなんだから、その時その時、与えられた役割を精いっぱい果たしていくしかない。」
(「一日一話」7月10日)
おわりに
「何のために生きているのだろう?」という疑問は、よくよく考えてみると、目の前のイヤなこと、煩わしいことから逃げるために湧き上がってくる言い訳なのではないかと思うことがあります。
多くの先輩たちの言葉は、この言い訳を乗り越える力を与えてくれます。
過去を憂えず、未来にとらわれず、今日、この一瞬を大事にしたいものです。
文献
※1 藤尾秀昭監修「1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書」(致知出版社)、令和2年11月25日